S-PRO RECORDS

ご挨拶

若松 宗雄

初めまして、みなさま、ようこそ、エスプロレコーズのホームページへ。当エスプロレコーズの代表取締役を務める若松宗雄でございます。

私は音楽業界において、かの松田聖子を発掘したプロデューサーということで、ご評価をいただいております。実際、松田聖子とは1978年、ミス・セブンティーンコンテストの九州地区大会で聴いた彼女の歌声が忘れられず、周りの誰もが「売れないだろう」と言う中、「絶対に売れる声だ」と確信してスカウトし、デビューに向けて連絡を取り続けた経緯があります。

その確信は当たりました。歌手生活42周年を迎える松田聖子の歌声は時代を超えて輝きを放ち、80年代から2022年の今にいたるまで、その時々に人々の心に残る名曲を数多く送り出し続けています。この経験からも私は、アーティスト、タレントのキャラクター、作品の善し悪しは、会社の会議や多数決で決まるのではなく、『一人の熱心なクリエイティブパーソンによって決断されるべきだ!』と信じています。それが今も変わることない私のポリシーであり、エスプロレコーズの基本理念です。

かつては考えられなかったインターネットの普及やカラオケの進化で、今や、日本はもとより、世界中の誰もが一人のエンタテイナーとして、自分の音楽、表現を世界に向けていつでも発信できる時代に来ています。しかしながら、そんな時代だからこそ、本物の才能を、本物のエンタテインメントを見抜く力が問われています。また既存の枠組みの中にあっては輝きを放つことが難しい“原石”を、私どもエスプロレコーズの最大の強みである優れたクリエイターたちによるネットワークを駆使することで発掘し、新たなスターに育てあげたい、そんな思いが日々、こみあげてくるのです。

古来、歌は世につれ、世は歌につれ、と言い、人間にとって歌うことは元気の源です。いつの時代も人々は音楽とともに生きてきました。まさに、NO MUSIC ,NO LIFEと言えるでしょう。
私たちエスプロレコーズはその原点に立ち返り、音を媒介とするさまざまな分野のアーティストを発掘し、応援していきたいと考えます。音楽業界のみならず昔ながらのアナログ手法が通用しなくなった昨今においてこそ、いまいちど原点に立ち返ることが必要です。音楽業界においても、スターになることが本当の夢であり、夢に向けてひたすら歌い続けた歌手たちがおり、その一曲一曲をヒットにつなげようと懸命に努力したクリエイター、プロデューサーたちがいた、あの、本当の意味で活気のあった80年代のような音楽を今に復活させたい。みなさんとともに、古くて新しい風を今の音楽業界に送りたい。そう心より願っております。


若松宗雄チャンネル

若松宗雄著「松田聖子の誕生」

キャンディーズ

キャンディーズ

松田 聖子

松田 聖子

伍代 夏子

伍代 夏子

藤 あや子

藤 あや子

パフィー

パフィー

若松 宗雄福島県いわき市生まれ
慶應義塾大学英文科卒業

<昭和44年>
CBS・ソニーレコード株式会社(現:株式会社ソニー・ミュージックエンターテインメント)入社。
入社後、大阪営業所に着任。セールスの実績を買われ一年半で広島営業所の所長になる。
広島営業所は全営業所中最下位だったが、一年足らずで売上・回収・キャンペーン等すべての面で、全営業所中トップの営業所に育てる。その実績を認められ、東京第一営業所長に抜擢される。

更に制作管理(アーティスト契約なども当時はこのセクションで担当していた)、宣伝部門を経て、企画制作部に移りプロデューサーとして活躍。
キャンディーズ、渥美二郎、松田聖子、伍代夏子、藤あや子などの発掘やプロデュースを担当する。
中でも松田聖子をスカウトし、 デビューをさせ、オリコンランキング24作品連続No.1を確率させる。一人のプロデューサーとしてその実績は、未だに破られていない金字塔である。

その後、営業部統括部長となり、全国のセールス担当の本部責任者となる。
当時カラオケは演歌が主流だったが「これからは演歌よりもポップス(若者向けの音楽)が主流になる」と、独特の勘とマーケットリサーチにより察知し、全営業所にその指示を出す。
セールス担当者は当時のこの発言に半信半疑だったが、その後カラオケはポップスが中心となり、重要な若者文化の1つとして現在に至っている。

<平成2年>
株式会社シーエス・アーティスツ(現、株式会社ソニー・ミュージックアーティスツ)の社長就任。
代表取締役社長7年、代表取締役会長1年、計8年間で株式会社ソニー・ミュージックアーティスツの現在の基盤を作り上げ、 その間に2人の新人女性を奥田民生に預け「パフィー」としてデビューさせる。
株式会社ソニー・ミュージックアーティスツ社長時代、業界団体である社団法人日本音楽著作権協会、 社団法人日本音楽事業者協会、社団法人音楽出版社協会の各理事を歴任し、音楽業界の指導的立場としての役割を果たす。

<平成10年>
有限会社グリーンパーク・ミュージック(現、株式会社エスプロ)を設立し、3年間松田聖子を所属させ、その間にNHK紅白歌合戦にも復帰させる。
その後、娘であるSAYAKAを預かり、グリコのCMを皮切りに芸能界デビューをさせる。
一方、モデル事業にも着手。徳澤直子をスカウトし、雑誌「セブンティーン」「CanCam」のモデルとして育成した。

<平成23年>
プロ・アマを問わず歌を愛する者同士で楽しい音楽を創りたいとの思いから、レーベル事業部門として「エスプロレコーズ」を設立。
林 寛子「そうよ人生 福袋」、河原﨑辰也 アンド・ザ・ミッドランドバンド「羅針盤 ~いくしかないだろう!~」
IZUMI Pahepuaokalani(ハワイアン・アーティスト)「Pomaikai」、Tama(元ヒステリックブルーVocal)「スマイルふくしまのうた」(電通・福島民報社との共同制作)、はやと「夕焼け烏」、ほか

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