若松宗雄について

若松宗雄について

若松 宗雄
福島県いわき市生まれ
慶應義塾大学英文科卒業
昭和44年CBS・ソニーレコード株式会社(現:株式会社ソニー・ミュージックエンターテインメント)入社。
入社後、大阪営業所に着任。セールスの実績を買われ一年半で広島営業所の所長になる。
広島営業所は全営業所中最下位だったが、一年足らずで売上・回収・キャンペーン等すべての面で、全営業所中トップの営業所に育てる。その実績を認められ、東京第一営業所長に抜擢される。

更に制作管理(アーティスト契約なども当時はこのセクションで担当していた)、宣伝部門を経て、企画制作部に移りプロデューサーとして活躍。
キャンディーズ、渥美二郎、松田聖子、伍代夏子、藤あや子などの発掘やプロデュースを担当する。
中でも松田聖子をスカウトし、周りの誰もが「売れないだろう」と言う中、若松ただ一人がこだわり、 デビューをさせ、オリコンランキング24作品連続No.1を確率させる。一人のプロデューサーとしてその実績は、未だに破られていない金字塔である。

その後、営業部統括部長となり、全国のセールス担当の本部責任者となる。
当時カラオケは演歌が主流だったが「これからは演歌よりもポップス(若者向けの音楽)が主流になる」と、独特の勘とマーケットリサーチにより察知し、全営業所にその指示を出す。
セールス担当者は当時のこの発言に半信半疑だったが、その後カラオケはポップスが中心となり、重要な若者文化の1つとして現在に至っている。

平成2年 株式会社シーエス・アーティスツ(現:株式会社ソニー・ミュージックアーティスツ)の社長就任。
代表取締役社長7年、代表取締役会長1年、計8年間で株式会社ソニー・ミュージックアーティスツの現在の基盤を作り上げ、 その間に2人の新人女性を奥田民生に預け「パフィー」としてデビューさせる。
株式会社ソニー・ミュージックアーティスツ社長時代、業界団体である社団法人日本音楽著作権協会、 社団法人日本音楽事業者協会、社団法人音楽出版社協会の各理事を歴任し、音楽業界の指導的立場としての役割を果たす。

平成10年 有限会社グリーンパーク・ミュージック(現:株式会社エスプロ)を設立し、3年間松田聖子を所属させ、その間にNHK紅白歌合戦にも復帰させる。 その後、娘であるSAYAKAを預かり、グリコのCMを皮切りに芸能界デビューをさせる。
一方、モデル事業にも着手。徳澤直子をスカウトし、雑誌「セブンティーン」「CanCam」のモデルとして育成した。

平成 23 年 プロ・アマを問わず歌を愛する者同士で楽しい音楽を創りたいとの思いから、レーベル事業部門として「エスプロレコーズ」を設立。
林寛子「そうよ人生 福袋」、河原﨑辰也アンド・ザ・ミッドランドバンド「羅針盤~いくしかないだろう!~」、IZUMI Pahepuaokalani(ハワイアン・アーティスト)「Pomaikai」、Tama(元ヒステリックブルー Vocal)「スマイルふくしまのうた」(電通・福島民報社との共同制作)、山内二郎「豊後流転」、三田杏華「おかげ様で絶好調」、綾乃緒ひびき「赤い鎧/九度山ゴンちゃん」、公認会計士 平林亮子「NADESHIKO ROCK / GO CRAZY!」
ほか